太陽は沈まない メイド服を脱いで、外に出る。空気を蒸し返らせている太陽は西へ色を変えて沈んでいく。 緑の多い学園の敷地にはひぐらしの声がこだましている。どうやら今日も夕立はこないよう で、また熱帯夜かと小さく溜息を吐いて西日の眩しい空を見上げた。 日本人でさえ根を上げたくなる蒸し暑い日本の夏をブリタニア人が快く思うはずもなく、道 路に設置されたスプリンクラーがアスファルトを冷やしていた。中には不調のものもあって、 水をじわじわと漏れているだけの物もある。それらを見ながらバスに乗ると、私は駅までの 道のりをいつもの風景の中で過ごした。 すっかり変貌した東京の姿。あの雑然と立ち並んでいたビルの姿は今はなく、広い道路と公 園、そしてブリタニア人の施設が整然と、おそらく設計士の想像通りに配置されている。 昔、建築士だった叔父が言っていた言葉を思い出す。美しく均衡のとれた景観を造ることに 一番必要なものは何か。素晴らしい建築家だろうか。金だろうか。そうではない。誰か一人 だけの地図に、誰か一人だけの街を造る。一番シンプルな方法だ。そう、必要なのは権力者 だ。絶対的な。そうすれば余計のモノは生まれなくなる。何かの建物が他の建物を邪魔する こともないし、せせこましい路地など生まれることはないだろう。そして叔父は笑う。だか ら日本ではきっと完璧に調和された街などできることはないな。 バスを降りて電車に乗り換える。その環状の電車の内側はもはや東京ではない。その内側に あった混沌はある日ごっそり取り除かれ、その場所には誰かのための誰かの街ができあがっ た。それはブリタニア人の街だろうか。私はそうは思わない。ここに広がる箱庭は極みに立 った誰か一人のための街なのだ。 しかし排除された混沌はその外側に今も息づいている。それは呼吸を徐々に荒くし、いつの 日か箱庭を奪い返すことを目論んでいる。 電車が進むと西へ沈む太陽を背景に混沌は姿を現す。崩れかけたビルの谷間に人間の生活の 臭いがする。外側でも内側と同じように人間の生活は営まれ、毎日誰かが死に、誰かが生ま れる。街のかたちは全く違えど根本的には同じ生き物の私たちが闘う理由はどこにあるのか。 私は誰か一人に平伏し続けるブリタニア人の心理がよくわからなかった。一人一人を見てい る限り、その現状に満足しているようには見えなかった。しかし彼らは息を潜めて箱庭の中 の動物を演じ続けている。きっとそれは今に始まったことではなく太古の昔からきっとその ように生きてきたからなのだろう。圧倒的な権力の下に個人の抵抗力など消えてしまうのだ。 東の空はぼやけた群青が支配し始めている。今夜も彼らは息を潜めて眠るのだろう。そう思 うと私は自分の行いがまるで愚かなことに思えてくる。私の行動に意味があるのだろうか。 不安になって負けたくなる。 電車は私を乗せたまま西の街を通り過ぎていく。そしてまたもとの駅に戻るのだ。その、ほ んの少しの時間だけが、私がただの篠崎咲世子として生きていられる時間だった。 あかりが灯り始める夏の夕刻。群青とオレンジのせめぎあい。いつかの夕暮れ。それだけを 胸に秘めて忘れないように握り締める。 そう、私はいつも闘っていなければならない。 ――だから。 070820 < |