深海


その水族館は租界のとある駅の傍にある。空襲を運よく免れたそれは、租界の中では珍しく
日本の時代からあった建物で、占領直前に作られたことからまだ古くない。僕は殺風景に感
じる租界の風景の中でこの建物が残されていたことを少し嬉しく感じた。
水族館に行こうと言い出したのはどちらでもなく、なんとなく環状線に乗り、なんとなく降
りた場所にそれがあったから入った、というだけの話だった。もう少し詳しく言えば、ルル
ーシュが入ろう、と言ったような気がする。特に行く場所がなかったから、ほとんど必然の
ようでもあるが。
水族館なんて、そんな場所に行くのはもう何年ぶりだろうか。きっと、まだここが日本だっ
た頃の話だ。父親と一緒に来たような気がするが、よく思い出せない。おそらくそれは事実
だろうが、父と並んで水槽を眺める自分が想像できない。どんな顔をしてそこに立っていた
のだろうか。当時の僕と父は。
その天井の高い建物の中は青くて、暗い。そして天井の果てまで水槽が高くそびえている。
無数に群れる魚は僕らの遙か頭上を泳ぎ、下の方には平たい魚が眠るように静かに沈んでい
た。大海に比べたら本当に小さな水槽。その中で住み分けを行う魚たち。それは世界の縮図
のようにも感じられる。
広い水槽を泳ぐ魚は冷たい空気の中からそれを眺める僕らを多少気にしているようにも見え
るし、そんなもの関係ないと切り捨てられているようにも思える。どちらにせよ、それは僕
の妄想であるが。
隣でルルーシュはずっと水槽の果てを見ている。たくさんの魚が戯れている水槽を見つめて、
一体何を考えているのだろう。
歪んでいる水槽は魚を屈折させて映す。ずっと見ていると目が回ってしまいそうだ。
どこまでも青い水槽にルルーシュの姿が反射しているのを僕は目を細めて眺めた。
ここにはすべてのメタファーが連続して存在している。
世界と、水槽と、それを眺めるルルーシュ。容積は違えど、そこに詰まっている質量は等し
い。
僕はそのどれもわからない。ルルーシュが今、何を考えているのか。これからどうしていく
のか。僕のことを、僕のやっていることを、どう思っているのか。
きっと、ルルーシュだって僕のことがわからないように。

「…もどかしいな」

呟いてみるとルルーシュが反射的にこちらを見た。
静寂が晴れて、水の音とほんの少しのざわめきが甦る。振り向いた際に揺れたルルーシュの
黒い髪の向こうに、銀色の魚がゆらりと動いた。
「どうかしたか?」
ルルーシュの問いに首を振って答える。
「つまらないか?」
「ううん、意外におもしろくてびっくり」
笑って答えると、ルルーシュも笑った。
「確かに。飽きないな」
「僕はどっちかっていうと、途方に暮れるけどな」
水槽に詰まった情報を一体、どうして処理したらいいのか。その存在をどうしたらいいのか。
その情報に気付いてはいるが、どうしようもない。持て余してしまう。うまく扱えない。
それがもどかしかった。
こんなことを考えるとは自分でも思わなかった。どうして世界と水槽をルルーシュと重ねて
見てしまうのか。
ルルーシュは僕の発言を聞いてからしばらく考えいるようで、腕を組んでこちらを見ていた。
まるで何かのパズルを解こうとしているような顔付きで。
そんなに難しく考えなくても、解かるはずで、けれど、それを僕が拒んでいるのはどうしよ
うもない事実であり、きっとその方がお互いにとって良いはずなのだ。
例えば、何かに置き換えて見ればいい。すぐに解ける。ルルーシュは解かっている。もとも
とそういう数学的な考え方をする人だから。だけど行き着かないのは、きっと概念がないか
らで、それはとても寂しいことだと心から思った。けれど安心する。一生解からないで欲し
い。僕をいう人間のことを。
僕も、ルルーシュのすべてを知りたいだなんて、思っていないから。
なのに、考えてしまう。

「ねぇ、少し疲れない?」

つい、思ったよりも大きな声が出てしまい、僕は内心冷や汗をかいた。

080107











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