4 夢の中で、何度も、何度もお兄様が呼んでいて、わたしはそちらに走っていこうとして、突 然転んだ。 何度立ち上がろうとしても、まるで、なくなってしまったかのように、足は動かなくて、そ れでもお兄様のところに行きたいから必死にその姿を探すのだけど、なぜか、そこは暗闇で、 あたたかい、日差しを感じるのに。 どうして太陽が、ないの? 怖くて、怖くて、叫びそうになったとき、目が覚めた。 でも、それが夢なのか、現実なのかは、わからなかった。 やっぱりその世界でも暗闇は続いていたから。 ただ、そのときその病室には誰もいなかった。 「お兄様…」 お兄様に会いたい。会いに行きたい。 でも、どうやって会いに行けばいいの? 足が動かない。そして目も見えない。ここがどこなのかもわからない。どうやってお兄様を 探したらいいの? わからない。 お母様。 お母様、たすけて。 怖い。怖い。真っ暗で。どこにもいけないなんて。誰もいないところにひとりぼっちだなん て。 お兄様に会いたい。だけど、もう一人で歩くこともできなければ文字も読めない。どこにお 兄様がいるのか探せない。 「ナナリー…起きたのかい?」 ぴくりと腕を何かが擦れる感触がした。さらさらで柔らかいお兄様の大好きな黒髪。 それに気付いた瞬間、暗闇の世界に自分が独りだけではないことがわかった。 「お兄様…」 鉛のように重たい腕を動かすとお兄様の両手に包み込まれた。あたたかい感触。まるで暖め てくれるかのようにお兄様は私の腕を優しく抱いてくださる。 見えないけれど、でも安心する。 「ナナリー、喋れる?苦しくない?」 優しい声。大好きな声。 「はい…」 「無理しないでね。聞くだけでいいから」 耳元でゆっくりと小さな声でお兄様は喋る。吐息が本当に近くにいることを示していて、と ても嬉しくなる。 「僕たちは、ブリタニアを出なければならなくなったんだ」 「え…?」 思いも寄らない言葉にただ驚いてばかりいるわたしの腕をお兄様は優しく撫でてくださった。 安心させるように。とても、穏やかに。 「安心していいよ。ブリタニアととても親交の深い国だから。その国の総理大臣の家で…休 養することになったんだ」 「わたしたち、二人だけで、ですか?」 「うん、そうだよ。だからもう怖い人は追ってこない。父さんが計らってくれたんだ。僕は 写真でしか見たことがないけど日本は美しい四季がある、素敵なところだよ」 「ユフィお姉様たちとはもう会えないのですか?」 「うん、ほんの少しの間、お別れだね。でもまだ出立までは日があるから、きっとやってく るんじゃないかな?」 お兄様は笑った。 でも。 「ですが、お兄様…」 「ん?なに?」 どうして急に、そんなことになったのか。きっとお兄様はすべてわかっていらっしゃる。け れど、わたしはわからない。だから、難しいことはいいとしても。でも。 「お兄様、私…目も、足も」 声が震えて、最後の方はきちんと言えなかった。お兄様が一瞬固まる気配がして、ああ、困 らせてしまったかしらと不安になる。 だって、怖い。わたしはきっとお兄様の足手まといになってしまうから。 「私…何もできない…一緒にいたら…」 そこまで言うと涙がこぼれた。ああ、泣いてはだめ。泣いてはだめ。余計にお兄様を困らせ てしまう。 すると頬にお兄様の髪が触れる感触がした。ぎゅう、と抱きしめられる。お兄様はわずかに 震えている。心臓の音が伝わってくる。 「…ナナリー聞いて」 苦しそうにけれど優しい声でお兄様は言う。 「僕はね、ナナリーがいなければ、きっと、もう生きていけないと思ったんだ」 それは、ひとつも偽りのない声で。 「だから、ずっと傍にいて、ナナリー」 頬にあたたかな雫が落ちる。自分のものなのか、お兄様のものなのか、もうわからない。 ただただ、あたたかく、その鼓動は、私の抱えた闇をゆっくり溶かしていく。 「僕がナナリーの目と足になる。だから…ずっと一緒だよ」 どこにいても、どんなときでも、絶対、一緒。 たったふたりきりのわたしたちは。 「はい…お兄様…」 きっと、だからだったのだと思う。 そのあと、わたしの回復を待つ半月間に、ユフィお姉様ととうとう会えなかったことも、住 み親しんだ宮と別れるときも、すでにいなくなった母と別れるときも、あのときのお兄様の 言葉が、涙が、ぬくもりが、いつまでもわたしの胸の中に残っていたから、きっと辛くなか ったのだと思う。 きっと賢しいお兄様はわたしよりも辛い思いをしているはずだから、せめて、わたしだけは いつも笑っていようと思った。お兄様がいつもわたしに笑ってくれる、それ以上に。 真夏の日本で、何が待っていようとも。 070525 < |